羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド 2017年01月 005/120

すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva.



すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva.
 等々力政彦(とどりき・まさひこ 1965‐ )は1992年の夏、南シベリアに位置するトゥバ自治共和国を初めて訪れた。そこはよほど魅力的な場所なのだろう、それ以降2013年まで、等々力はトゥバの地にほぼ毎年足繁く通うようになる。その20年ほどの間に現地の音楽家たちと交流し、歴史文化を調査研究し続けた等々力は現在、トゥバ民族音楽演奏家として活躍している。
 等々力政彦と私は四半世紀来の友人同士である。おかげでこうして、私は現地入りすることもないままに、人づてにトゥバについて書くことになった。「人づてに頼む人」として、等々力以上の適格者もいないだろうが。

 トゥバとは、一国の国名であり、その国土を中心にロシア・モンゴル・中国の国境を越えてその周辺に生活する少数民族の名称でもある。南シベリアの遊牧・狩猟文化をいまだに色濃く残し、厳しくも豊かな自然環境下にトゥバ民族約25万人が生きている。
 とはいえトゥバ人の生活が、素朴で平穏なものだったとはいい切れない。それとは逆に、過酷な政治状況をくぐり抜け、なんとか民族としての命脈を保ってきたといっていいだろう。古くから周辺諸民族との絶え間ない抗争にさらされ、さらに十七世紀からは二つの強国ロシア・清に挟まれ、長く少数民族として係争地に生きることを余儀なくされた。
 トゥバは、1921年から1944年まで、独立国として存在した。その国名を日本語で表記するなら、およそ「タンヌ・トゥバ人民共和国」のちに「トゥバ人民共和国」となるらしい。独立以前は清朝・満州族の支配下にあるモンゴルの支配下にある一地方として二重支配を受け、独立したと言ってもそれはロシア・ソ連邦の政治的意図によるもので実質的にはその支配下にあり、やがて1944年ロシア共和国の一自治州としてソ連邦のもとに併合された。独立国としての「トゥバ」は名目上のもので、かつ短命に終わったわけである。
 その一方で、もともと芸能を愛しその技芸に優れた民族性が、過酷な環境下にあっても、独自の芸術を創造させることになった。「喉歌」がその一例で、地域限定の独特な技芸が、人類に共通するセンチメントに出会い、普遍性の高い芸術に昇華した。トゥバの地は世界有数の民族音楽のホットスポットとなり、トゥバ音楽愛好家を世界中に数多く生むことになった。

 21世紀の今から振り返れば、20世紀の一世紀をかけて、トゥバは地理的・政治的秘境から、徐々に世界に開かれていくことになったと言えるだろう。そして、その開かれていく過程の最後の十年のトゥバを、等々力は目の当たりにしてきたことになる。
 『シベリアをわたる風 トゥバ共和国、喉歌(フーメイ)の世界へ』(長征社 1999)は、その等々力の紙媒体著作品のデビュー作である。
 その文中に、等々力が、トゥバの存在を通して相知ることになった米国人ラルフ・レイトンを、ロス・アンジェルスに訪ねる場面がある。ラルフは、等々力より一足早く、1988年にトゥバ渡航を果たしている。
 彼らは初対面の機会を、1996年一月末に持った。ロスからトゥバ民族音楽家のコンサートが行われるドイツへ単身向かおうとしている等々力を、
「いちいちラルフは私のドイツ旅行のことに言及して、誰彼なく「クレイジー・トラベラー」として私を紹介するのである。」(『シベリアをわたる風』)
 トゥバの地にはどうやら、いつの世のどんな社会にも一定数存在する、クレイジートラベラーを惹きつけて止まない魅力があるらしい。今回のこのレビューでは、まずはそんなクレイジートラベラーの何名かを紹介し、その足跡を辿る形で机上のトゥバへの旅を楽しんでみたい。21世紀に入りその地がもはや前世紀にそうであったような秘境ではなくなったとはいえ、気軽に旅先として選べる土地でもないだろう。

クレイジートラベラー列伝
 第一号のクレイジートラベラーはイギリス人で、彼がトゥバの地に「アジア中心の碑」をたてたところから話は始まる。
ジュール・ヴェルヌが好んで主人公にとりあげそうな、一人の奇矯なイギリス人が、すべての大陸の中心点に記念碑を立てたいというたった一つの目的のために、世界中を旅してまわった。「この大陸の中心点であるここに、この日私は立った」――何年何月何日と刻んで。かれがこのアジアの心臓に記念碑を立てるために出発したのは、アフリカと南北アメリカにはすでに石碑を立てたあとだった。かれの計算に従って、イェニセイ河上流の岸辺に位置するシナのウリヤンハイ地方に石が立てられた。金持ちでスポーツマンのこの男は、多くの痴れ者がそうであるようにしつっこく、いかなる困難にもめげずに目的地に到達したのである。  私は一九二年の夏、その石碑に対面した。石はかつてのウリヤンハイ、今はトゥバと呼ばれている国のサルダムに立っている。シベリアとアルタイ山脈とゴビ砂漠に囲まれて、ヨーロッパ人には閉ざされた、アジアのこの遊牧民国家の中に。」
 『トゥバ紀行』メンヒェン=ヘルフェン著・田中克彦訳(岩波文庫 1996)の冒頭部分である。文中の「私」は当然、著者のドイツ人オットー・メンヒェン=ヘルフェン(Otto Manchen-Helfen 1894 -1969)で、われわれは彼をしてトゥバの地を目指すクレイジートラベラーの第二号と認定してよいだろう。1929年の夏、一号・二号の、碑を介しての、間接的な邂逅である。

 この「アジア中心の碑」の現在・現状について、2017年1月、等々力氏に尋ねたところ、次のようなメッセージが返ってきた。
「「アジア中心の碑」は、おそらく1890年代に東北部のトジュ地域に木製のものがあったのが一番古いものであると考えています。その後、1929年にメンヒェン=ヘルフェンが、その「石碑」と対面したことが書かれていますが、これがどこにあってどのようなものであったのかはっきりしません。彼の遺品は、カリフォルニア大学バークレー校に保存されているのですが、調べたところではあまりめぼしい参考資料がないようなのです。1950年あたりには、コンクリート製のものになっているのが、残された写真からわかります。場所は、現在のアジア中心の碑の位置 (LINK!)よりも、若干下流側 (LINK!)でした。現在のアジア中心の碑は、1964年に建てられた碑を破壊して2014年に再建されたものですが、何かつまらないものです:
 https://www.youtube.com/watch?v=QnRl3G3GXK8。 」
 クレイジートラベラー第二号のメンヒェン=ヘルフェンは、独立国時代のトゥバに潜入した。
 文中に「私がロシア人以外ではじめてトゥバに足を踏み入れた人間である」と宣言した1929年の旅の記録は、『REISE INS ASIATISCHE TUWA』としてまとめられ、1931年に世に出た。その日本語訳が、岩波文庫『トゥバ紀行』である。それは発刊当時、書き手にも内情をばらされることになったソ連当局にも、それぞれに切迫した内容を持つ出版物であったらしい。
 訳者田中克彦の解説によれば、
「一九八七年当時、まだ存命であったメンヒェン=ヘルフェン夫人は、英訳本に寄せた序文で、もしも夫が生きていたら、本人はこの本の再刊を望んだかどうかわかりません」、「夫は徹夜でタイプを打ち、次の朝、できあがったぶんだけ、いらいらしながら待っている編集者に渡すのが私の仕事でした――それほど大急ぎで書かれ、推敲する余裕などありませんでした」と回想している。
 著者が夜を日についで、大急ぎで本書を書き上げた背景には、一日も早く、トゥバの実態を世界に伝えねばという切迫した気持ちがあったにちがいない。そして、そのことはたしかに絶大な効果があったのだ。ソ連の当局者は、とんでもないやつをトゥバに入れてしまったと、後悔のほぞを噛んだにちがいない。本書を見たモスクワの新聞は、著者のことを「第二インターナショナル右派」、「社会民主党の反ソ活動家」、「カウツキ―やヒルファーディングの手先」などと、口汚くののしったのである。しかし、あとのまつりとはこのことだ。うっかりこの「匈奴史家」、「シナ美術史家」をトゥバに入れてしまったために、トゥバの実状が世界にもれてしまった。そしてそのおかげで、こうしてトゥバについてのかけがえのない証言が残ることになったのである。」
 メンヒェン=ヘルフェンの観察眼は優れたものだ。私は、等々力から得たトゥバに関する情報のいくつかを、その半世紀以上前に書かれた『トゥバ紀行』の中で追体験することになった。 たとえば、羊の屠り方。
 「トゥバ人が牛を殺すのは、真にやむを得ないときだけである。通常の肉料理は羊肉である。かれらがヒツジを屠る特別の方法は、たいへん古い時代から伝わったものである。私がヒツジを屠ってもらおうとしたとき、それを見ようなどという考えは起こらなかった。トゥバ人がロシア人入植者とは別の屠り方をするなどとは思ってもみなかったからである。あるとき、ヒツジはロシア式にやった方がいいのか、それともトゥバ式にやってほしいのかと聞かれたので、はじめてトゥバ特有の屠り方があることがわかったのである。
 一人の男がヒツジを仰向けにして、腹の上にまたがり、その両前脚を左手でしっかりとおさえる。それから胸骨が終わるあたりのところで、皮を手の幅くらいの長さに注意深く切り開く。そのとき、一滴たりとも血を流してはならない。それからすばやく右手をその切り口から体内に入れて、力いっぱい大動脈をしめつける。ヒツジは一、二度ぴくぴくっと動くと、もう死んでいる。私たちが普通やるような屠り方よりはたしかにずっと速い。それからヒツジはすっか切り開かれて――その間じゅうずっと仰向けにしておかなければならない――肝臓、肺、脾臓、腎臓を取り除いてから、湯を煮建てた鍋の中に投げ込む。血は特別の容器に汲み取られ、前もって女たちがきれいに洗っておいた胃と腸の中に詰める。そこではじめて皮を剥ぎ取る。屠るときにも内臓を取り出すときにも、また解体するときにも、血を流さぬよう、とくに、一滴たりとも大地を汚さぬよう注意深くやらなければならない。
 この習慣は、昔は北、内陸アジア全体にひろまっていた。チンギス・ハーンの法律がそう定めていたのである。マホメット教徒が屠るようなやり方をする者は、自分自身がそのように殺されるであろうと。まだ何十年もたたない以前、ヤクート人、ミヌシンスク・タタール人、それにブリヤート人で、古いシャマニズムを守っていた人たちは、少なくとも生けにえ獣はこのようにして屠っていた。日常生活では、諸民族はすでに「普通の」屠り方に移っていた。一方でロシア文化の、他方では仏教の影響がこの古いしきたりを絶滅させた。それは多くの原始のことどもと同様、トゥバと西部モンゴルの一帯だけで維持されている。」
 等々力の記述。
「ここで肉にまつわる話をしておく。ヤギや羊の肉は基本的に食べる人々で殺すのである。殺し方は非常にエレガントだ。まず鳩尾(みぞおち)のところをナイフで十センチくらい切り、そこから手をつっこんで、心臓や頸動脈をつぶして血流を止める。あるいは脊椎を外す、そうすると五分以内に、速やかに殺すことができる。その後、血は腸に詰めてソーセージにし、切り分けた肉や内臓と一緒に塩茹でにするのである。無駄がほとんどない。この殺し方はチンギス・ハーンの「大地に血を落としてはならない」という掟をそのままに伝えているものであり、現在では他にはモンゴルなどでしか見られなくなっている方法である。」(『シベリアをわたる風』)
 『トゥワー民族』鴨川和子(晩聲社 1990)でも同様の羊の屠り方が登場する。鴨川は、その著書の「まえがき」で「一九八四年には夏と冬の二度にわたってトゥワー自治共和国へフィールドワークへ行くこともできた。トゥワーが革命後外国人を地方にまで受け入れたのは、これが初めてである。」と語っているように、ペレストロイカ以前にトゥバの地方まで足を伸ばすことができた数少ない外国人の一人だ。
「真っ黒に日焼けしたユルタの主人スイラトさん(三〇歳)が、ヒツジの群れの中から一匹肥えた雌ヒツジを掴み出してくると、そばにいた牧民たちが「うん、それならいいだろう」と賛同の合図をした。捕えられたヒツジは激しく抵抗するが、スイラトさんに後右足をガッチリ握られて身動きできず、用意された敷物の上に仰向けに寝かされてしまった。若い牧民が手助けのためヒツジの頭の方に座り、前肢を右手で押え、左手を首に回し口を塞ぐ。スイラトさんはヒツジに股がり、足でヒツジを押え、腰に下げていたナイフで胃の辺りに一〇センチほどメスを入れた。そのとき、ヒツジの悲鳴があがった。スイラトさんはその切り口から、静かに右手を奥深く入れていく。心臓から出ている大動脈を指で探っていき、彼が「これだナ」と指に力を入れたその瞬間、フンがポロポロと落ちた。ヒツジは弱々しい最期の声をあげて息絶えた。」
 死生観についての比較もできる。
 メンヒェン=ヘルフェン。
「死後三日目、七日目、四〇日目に、身内の者が集まって食事をすれば、行事のすべては終わる。死者はずっと忘れられないようである――先立った妻におくれて生き残りたくないために自殺したという男がいたという話を二度聞いた――が、しかし死者の名はもう口にされない。死者のことは話さない方がいいとされている。その名を口にすることはきわめて危険である。ひょっとして、またもどって来るかもしれないからである。どんな死者にも悪意があり、生きている者が光の中にいることをねたんでいるからである。」(『トゥバ紀行』)
 等々力。
 「最後に死についてである。この話はクズル郊外で、チャダーナ生まれのおばあさんから聞いたものである。
 トゥバでは人が死んだ場合、七日後と四十九日後にシャマンを呼んで供養してもらうという。ロシアでは九日後と四十日後に供養がある。供養はまずシャマンの右側に線を引いて、その外側に親族を置き、シャマンは線の内側で霊と話す。そのとき霊との交信は火を通して行う、交信は長く行うとシャマンの魂が持っていかれてしまうということである。
 また死後には死んだ人の名前をいってはならないということである。生きているものを羨んで、とりつかれるのだという。
 実はこれについては思い当たる。一九九六年の夏に訪れたときのことである。トゥバでは結構頻繁に殺人事件が起こるようなのであるが、この年は私の知人が二人も殺された。一人は路上で刺し殺され、もう一人は夜中にドアを壊されて、寝ているところを射殺されたのである。そのことをいうのに彼らは、早く話題を変えたがっているように見えたのである。今までは、「死に対するトゥバ人の考えは、あっさりとしているのだ、考えてみれば死なんて当たり前のことだから」と納得していた。ところがそれは誤りであったわけである。」(『シベリアをわたる風』)
 第3号・第4号のノーベル賞物理学者ファインマンとその年若き友人ラルフ・レイトンは、1980年代に、トゥバの首都「クズル(キジル)」(Kygyl)への渡航を試みた。
 1988年にラルフはついにトゥバに辿り着くのだが、ファインマンはその1988年の2月15日に亡くなり、結局トゥバの地に立つことはなかった。ラルフ自身がその顛末を書き綴り、『TUVA OR BUST! Richard Feynman’s Last Journey』(1991)として、一冊の本にまとめられた。その邦訳が『ファインマンさん 最後の冒険』大貫昌子訳(岩波書店 1991/岩波現代文庫 2004)だ。その本はまた、1978年に癌の手術を受け、1988年に亡くなるファインマンの十年間の「知的」な闘病生活記でもあり、ファインマンとラルフの稀有な友情物語でもある。
 『ファインマンさん最後の冒険』を読んでいると、改めて1980年代当時の米ソ対立の深刻さを伺い知ることができる。文中には、1980年のジョン・レノンの死、1986年4月のチェルノブイリ事故、同年サハロフ博士の放免、そしてゴルバチョフのジャイアント・ステップと、昭和を生きた人間には懐かしい出来事が並ぶ。世界的な激動の年だった1989年に向かう10年間を追体験できる、一風変わった年代でもあるかもしれない。
 その激動の1989年が過ぎ、ソ連崩壊の翌年1992年に等々力が、1993年には田中克彦先生が、次々とトゥバ行きを果たす。第一号から第三号までの諸氏と比較すれば、渡航はかなり容易になったと言えるのだろう。さらに、21世紀に入ると日本からトゥバへのパッケージツアーまで企画され、多くの日本人がさらに難なくトゥバ行きを果たすことになる。時代は変わる、ということだろうか。

マキシム・「デルス・ウザーラ」・ムンズク讃
 さて、ここまで読んでいただいたとしても、実際見た事も会ったこともないトゥバ人が、どんな人たちなのかイメージするのは難しいだろう。そこで、もっとも人目に触れる機会の多いトゥバ人を紹介したい。
 黒澤明監督『デルス・ウザーラ』の主人公デルスを演じる、マキシム・ムンズクはトゥバ人であり、トゥバの芸能の興隆維持保存に貢献した国家的人物だった。いままでこの文中で紹介したトゥバ関連本のことごとくに登場するのが、このムンズク翁である。

 1993年夏、クズル(=キジル Kygyl)で等々力はムンズク氏の知遇を得る。
「(前略)偶然、路上で俳優のマクシム・ムンズク翁と出会った。彼の名前は黒澤映画を通してではなく、『ファインマンさん最後の冒険』で知っていたのである。我々に対して、日本に行ったときの思い出などを、しきりと話してくれた。ムンズク氏は当時八十二歳であって、一つ年上の黒澤明氏をたいへん慕っていた。(後でわかってきたが、彼は出会った日本人全員に「クロサワサンと再会したい」と話していたようである。よほど会いたかったのであろう)。黒澤氏は、トゥバの一舞台芸人であったムンズク氏を大抜擢して、一九七五年『デルス・ウザーラ』(ソ連映画)という美しい映画を結晶させたのである。私も帰国してから初めてこの映画をビデオで見、原作『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』(アルセー二エフ著 長谷川四郎訳 東洋文庫)を読んで、その美しさに触れた。この話はウスリー地方の学術探検の話であると同時に、ロシア人の「測量技師」であるアルセー二エフとウスリー地方の少数民族ナナイ人(ゴリド人)の罠猟師デルスウとの、悲しくも心温まる友情の実話である。
 ムンズク氏はクロサワサンと再会したがっていた。その印象が強かったため、帰国後、そのことを書いて黒澤氏に送った。大学の研究室の友人たちには「そんなことを書いても、読んでもらえないよ」といわれた。ところが大方の予想を裏切って、黒澤氏からクリスマスカードがやってきたのである。
 明けた一九九四年八月十三日の夕方、「クズル市誕生八十周年記念コンサート会場」に私はムンズク氏を尋ねた。そしてクリスマスカードのコピーを手渡したところ、たいへん喜んでくれた。この日のコンサートで、彼はカラクス夫人とともにアー・シュー・テケイ・オーというトゥバの掛け合いの歌を、仲良く歌ってくれた。」
 「一九九八年九月六日、黒澤明氏は享年八十八歳をもってこの世を去った。マクシム・ムンズク氏もまた一九九六年四月にカラクス夫人を亡くされてからは、家に閉じこもりがちであると聞いた。そうやって、死を待っているのかもしれない。

ムンズク氏はたいへんにクロサワサンと再会したがっていた。それはまさにデルスウがアルセー二エフを慕っている姿にも見えるのである。」(『シベリアをわたる風』)
『トゥバ紀行』解説。
「トゥバについての研究書はトゥバでもモスクワでもかなり多く出版されて日本にもたらされたが、トゥバが実在のものとして感じられるような機会はなかった。そうしているうちに一つのできごとがあった。一九七五年、黒沢明がソ連に招かれて行って作った『デルス・ウザーラ』が公開された。そこでデルスを演じたのが、ムンズクというトゥバ出身の俳優であり、映画の日本公開に際して、そのムンズク自身が日本にやって来たと新聞が報じた。そのとき、私はムンズクに会いに行くことはしなかったが、一九九四年、クズル市誕生八〇周年の記念祝典に、オールジャック大統領に招かれてトゥバに行った際、ステージの上に立って、元気いっぱいに祝辞を述べるムンズクの姿を見ることができたのである。」
『ファインマンさん 最後の冒険』。
 「そのころ僕の方もまた、いささか見解をひろめる経験をした。日本人の友だちが、黒沢明監督による日ソ共同製作映画『デルス・ウザーラ』に連れていってくれたのだ。今までの黒沢の作品とまったく異なり、この映画は、第一にカラーで撮られ、第二にその背景も日本でなくシベリア東部で、第三に三船敏郎ならぬソ連の俳優が起用されていた。そして一九七五年度最優秀外国映画として、アカデミー賞をもらっている。
 二〇世紀はじめに地図作製のため、ロシアと中国の国境周辺で働いていた測量隊の話である。若く荒っぽいロシア兵たちが、デルスという見るからに小柄な猟師に出会い、その乱暴な行動をたしなめられる。中でも印象に残ったのは、ある夜、凍てついた湖上ですさまじい突風に襲われた測量隊の隊長の命をデルスが救う、手に汗をにぎるシーンだった。
 僕はこうと思ったら最後、まったく頭の融通が利かなくなる人間だ。映画の中では「ゴルディ」族だということになっていたが、デルスはトゥーバ人だとひたすら信じて疑わなかった。」
 「融通の利かぬ頭で僕がかたくなに信じこんでいたことは結局当たっており、デルスを演じたあの俳優は、ほんとうにトゥーバ人だったのだ! この国際的スターにファンレターを、しかもトゥーバ語で書こうと僕は思いついた。例のトゥーバ語―モンゴル語―ロシア語対照熟語集をめくり、単語をついだりはいだりしてできたのは「私は 映画 デルス・ウザーラ カリフォルニア‐の中 見た 私」とか「夏‐の中 トゥーバ‐に 来る‐でしょう私。会う‐互いに 可能か?」などという文である。」
 「キジルに戻った僕たちは、ついにわれわれの聖杯たる「アジア中心碑」の前に立った。しかしそれはまるでリチャードの墓のようにも思われ、僕の胸はつまるばかりだった。
 胸が痛んだのはもう一つ、キジル劇場を訪ねたときである。酋長(=リチャード・ファインマン 筆者注)と僕がいっしょにドラムを打つのを夢見た。あの劇場なのだ。白い大理石のロビーの地下には、まるで酋長のために作られたような面白いものが、でんとすわっていた。銅の器と鎖がゆっくりした一定のパターンで、水をたがいちがいの水路に通すという、一種の水時計である。
 そのロビーの二階で地方の芸能人が、非公式な民族音楽の催しで、僕たちをもてなしてくれた。その中にはシャーマンの踊りに伴うドラムや、数人の歌手による「フーメイ」もあり、中には「デルス・ウザーラ」(マキシム・ムンズク)おん自ら、奥さんとかけあいでトゥーバの民謡を歌うひとこまもあった。その会のあと僕はムンズクと握手を交わし、出演者一同に向かって、ばかの一つ覚え的美辞麗句をトゥーバ語で述べた。「私の心の奥底からご挨拶を送ります。そして仕事のご成功とご健康と幸福とを心からお祈りします!」」
 私も映画『デルス・ウザーラ』は何度か見た。
 特に印象的なシーンの一つに、デルスが、かつて彼の妻子を天然痘で失った場所の近くで、アルセーニエフの一隊とともに、野営する場面がある。デルスは、夜遅く、焚き火に当たりながら、慰霊のためなのだろう木の枝をナイフで削り(アイヌ民族のイナウの造形を想像させる)、一人静かに鎮魂歌を歌う。アルセー二エフは一人その姿と歌声に気づき、デルスの話を聞き彼を慰めながらその人間性の深さに感銘を受ける。デルスになり切ったかのようなムンズク氏の、素晴らしい歌と歌声を聴くことができる。この映画だけは、主役が三船敏郎でなくてよかったと思わせるシーンである。

 『トゥワー民族』の、著者鴨川氏によるマキシム・ムンズクへのインタビュー。
「ムンズーク 最初、黒沢さんはデルス役を三船敏郎さんにやらせようと考えていらっしゃった。かれは美しい、私とは違う。(中略)
 私は小さいときからタイガで育った。ユルタもなく、あの厳しい寒さのシベリアでですよ。住む家がなかったんです。その点ではデルスの境遇とたいへん似ている。あの体験が大きな助けとなったですよ。(中略)
 一九七四年の一月二日に、忘れもしませんよ。黒沢さんとモスクワで会った。(中略)黒沢さんは私の周りを回ってジロジロ見るだけ。「インテリの手ではない、狩人の手だ」とその一言だけ(笑)。」

別種のクレイジートラベラーの(トゥバの地には導かれない)道程
 『シベリアをわたる風』には私(田原洋朗)も登場する。
 「タルバガン、巣穴を出る
 こうして練習してきた歌であるが、一九九七年からはすこしづつ人前で歌う機会を設けてもらえるようになってきた。そんなおり、インターネット上に喉歌のホームページを発見した。そしてそれを主宰している北海道の嵯峨治彦という人が、モンゴルのフーミー(ホーミー)とモリン・ホール(馬頭琴)を実践していることを知り、連絡を取りだした。
 やがて私の友人で北海道出身の田原洋朗さんが、それまで住んでいた大阪から北海道に帰ることになった。最初、私は田原さんを嵯峨君に紹介したのであるが、やがては嵯峨君と田原さんに、逆に私が呼ばれて北海道へ行くことになる。一九九七年の十二月である。そこで嵯峨君と一緒に初めてセッションをしたのであるが、なかなか面白い演奏ができた。
 一九九八年の二月にはもう「タルバガン」というユニット名も決定し、レコーディングを行い、小さいながらも札幌において初のライブを行った。ユニット名は田原さんの命名によるもので、何となく決まってしまった。
 タルバガンというのは体長四十センチほどの地リスでアルタイ山脈周辺に住む。レッドデータブックににも記載されている希少種であるが、近隣の民族は毛皮および肉をとるために、この動物の狩猟を行っている。どのようにしてその矛盾が解決されているのか、私は知らない。
 モンゴルにおいて、タルバガンの狩猟がどのように行われるかは、比較的よく知られている。この動物はたいへんに臆病なくせに、好奇心が旺盛なのである。それを利用して狩りをするのである。
 狩人はまず白い払子(ほっす)のようなものを振って踊るのであるが、タルバガンはこれがどうしても気になって仕方がない。そこでタルバガンがずっとそれを見つめている間に徐々に近づき、鉄砲でズドンである。トゥバにおける狩猟方法を私は知らないのであるが、タルバガンより小さいウルゲと呼ばれる別種の地リスを、一種の口笛で呼び出しているのを見たし、私も呼び出したことがある。全くの馬鹿者である。アメリカの友だちがトゥバ西部のムンギュン・タイガ地域でタルバガン猟を見たようであるが、彼によると「スプラッタ・ムービーだった」ということで、おそらくはモンゴルと同じなのであろう。なぜこのような間抜けな動物の名前を付けたかという最大の理由は、全く異なる言語であるモンゴル語とトゥバ語で共通の単語だったからである。ぜんぜん説教くさいような名前ではないし。この名前が少なくともトゥバにおいては間違いではなかったと思われるのは、トゥバ人たちが我々のユニット名を聞くとさもおかしそうに笑ってから、すぐに覚えてくれるということである。トゥバの西部にはタルバガンの歌まであるのだから、愛されるべき動物なのである。モンゴル人にも何人かに聞いたが、かの地にタルバガンの歌があるという情報はまだ得ていない。日本人にとってはタラバガニと間違えられることが多く、今後の課題である。
 三年に一度、トゥバの首都クズルで開かれる「国際フーメイ・シンポジウム」というのがある。この名前も手伝ってか、一九九八年七月の第三回大会において、我々タルバガンは総合で二位という外国人としては破格の賞をもらえた。出てみるものである。」
 等々力は『シベリアをわたる風』の中で、自らのトゥバでの体験と人との出会いを、「わらしべ長者」のようと書いている。それは、最近の言葉を使うなら、「セレンディピティ」の結果ということになるだろう。私には、その「セレンディピティ」こそが、クレイジートラベラーたちに共通する資質ではなかろうかと思われる。
 トゥバの喉歌にしても、さらに大きく言ってしまえば今ある芸術の多くが、「セレンディピティ」に優れた、停滞を好まない、芸術家たちの成果物ではなかったか。自分の喉が発する不思議な音声を、面白い物として見出すことのできた「セレンディピティ」の持ち主たちが、何代にも亘り、やがてその歌声が世界中に拡がる音楽にまで高めていった。芸術家たちは、物理的な距離を稼ぐトラベラーではないものの、人間の可能性を追求する自分の内面を旅するクレイジートラベラーなのだろう。ファインマンのような科学者たちも、自然の真実の姿を追求する好奇心に満ち満ちた、クレイジートラベラーだろう。
 2017年現在、世界はまた、残念ながら、政治的秘境を作りかねない状況にあるようにも見える。クレイジートラベラーにも、それほどクレイジーではないトラベラーにも、世界は開かれていなければない。この一文が、あなたの旅する心に、何かしらの印象を与えることができれば幸いである。
 旅する心こそが、新たな世界を開く鍵に違いないのだから。
 (文中敬称略)

すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva. ブックガイド

凡例 『書名』・著者編者訳者などの名前・(出版社名 初版刊行年)・[コメント]
[随時、追加・追記・修整します]

【本文中に登場する本・映像作品・音楽作品】

『シベリアをわたる風』等々力政彦(長征社 )
『トゥバ紀行』メンヒェン=ヘルフェン 田中克彦訳(岩波文庫)
『トゥワー民族』鴨川和子(晩聲社 1990)
『ファインマンさん最後の冒険』ラルフ・レイトン 大貫昌子訳(岩波書店 1991)
 [原書は『TUVA OR BUST! Richard Feynman’s Last Journey』 Ralph Leighton / First published 1991 by W.W.Norton & Company,Inc.,New York)]
『デルス・ウザーラ』黒澤明監督(1975)
『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』(アルセー二エフ著 長谷川四郎訳 東洋文庫)

タルバガン(等々力政彦・嵯峨治彦)
『タルバガン、大地に立つ』(BOOXBOX 1998)
『マイタイガ』(BOOXBOX 1999)
『野遠見』(BOOXBOX 2005)

【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】

『草原情歌』ガルサン・チナグ 今泉文子訳(文藝春秋 1995)
訳者の今泉文子さんによる解説の一部。
「作者ガルサン・チナグ(モンゴル語でチナグン・ガルサン、トゥバ語でジュルク・ウヴァ―)は、一九四四年、モンゴル西端部のバヤン・オルギー県に、すなわち、ロシアと国境を接するあたりのアルタイ山脈のふところに、遊牧と狩猟を生業としてきた少数民族トゥバ人の一家の末息子として生まれた。ウランバートルのモンゴル国立大学に入学して間もなく、ドイツのライプツィッヒにあるカール・マルクス大学に留学する。そこで数年間学んだガルサンは、その後、ドイツ語でものを書きはじめ、一九九二年には、『トゥバの物語』でバイエルン芸術アカデミーからシャミッソー賞を受けた。
 「ノマドが書き手をえた」といえばあまりに魅力的だが、本書は、外側からみた単なるエキゾシズムとは無縁の、少数民族ならではの誇りと悲哀に裏打ちされた真に力強く素朴な叙事詩である。ここには、ついこのあいだまで、自然のリズムにしたがった、自然そのものとして生きてきた人間への限りな哀惜の念が満ちており、文明の隘路に陥っている現代人の胸をも強くうつにちがいない。」
『トゥバ紀行』解説より。
「モンゴルにおける少数民族としてのトゥバ族は、一九四年代以降のカザフ族優遇政策のあおりを受けて移住を余儀なくさせられるなど苦難をなめた。その時代を描いたモンゴルのトゥバ族作家チナギーン・ガルサン(トゥバ語ではシュヌクバイ・ジュルク=ウバ―)は、その作品によってバイエルン芸術アカデミーからシャミッソー賞を受けた。
 ジャーナリストで映画の製作にもたずさわるガルサンは、ライプツィヒで学んだ真に才能ある作家で、これまで発表した作品はすべてドイツ語で書いている。一九九三年に発表された『歌の終り』は、九五年『草原情歌』の訳名で文藝春秋より刊行された(訳者は今泉文子)。モンゴルのトゥバ人による、知られることの少ない作品として、ぜひ一読をすすめたい。」

『トゥバ紀行』メンヒェン=ヘルフェン 田中克彦訳(岩波文庫)関連
・『モスコー共産主義大学の思ひ出』風間丈吉(三元社 1949)
 ・『夜あけ前の歌 盲人詩人エロシェンコの生涯』高杉一郎(岩波書店 1982)
 ・『動物と人と神々』オッセンドフスキー 神近市子訳(生活社 1940)
・『亜細亜辺境異聞』(新東亜協会 1943)
 ・『トゥヴァ人民共和国』東亜研究所編(坂本是忠)1944
 ・『蒙古政治史』後藤富男 1938
 ・『近代蒙古史研究』矢野仁一 1917
『トゥワー民族』鴨川和子(晩聲社 1990)関連
 ・『南ロシア 草原(ステップ)・古墳(クルガン)の神秘』鴨川和子(雄山閣 2015)
『ファインマンさん最後の冒険』ラルフ・レイトン 大貫昌子訳(岩波書店 1991)
 ・アラン・レイトン訳「トゥバ紀行」
 ・チンギス・ブルース
 ・コンガルオール・オンダル
 ・「TUVA : voices from center of Asia」

【等々力政彦 トゥバに関する著作一覧】
Todoriki, M. 1997 Tuva. BooxBox, Ebetsu.

等々力政彦 1999『シベリアをわたる風』長征社, 神戸.

等々力政彦・榊原健一・小坂直敏・足立整治 1999「トゥバの喉歌フーメイ(ホーメイ)の歌唱について」『日本音響学会 音楽音響研究会資料』 18: 119–126.

Levin, T.C., Edgerton, M.E.著・等々力政彦訳 1999「アジア中央部の不思議な喉歌ホーミー」『日経サイエンス』 29: 72–81.

近藤和正・小西知子・榊原健一・村野恵美・熊田政信・等々力政彦・今川博・新美 成二 2000「喉歌の発声における喉頭調節」『日本音声学会 第14回全国大会予稿集』 37–42.

榊原健一・足立整治・近藤和正・小西知子・村野恵美・熊田政信・等々力政彦・今川博・新美成二 2000「トゥバ,モンゴルの喉歌における声帯振動の観測」『日本音響学会 平成12年度秋期研究発表会講演論文』 171–172.

榊原健一・足立整治・小西知子・近藤和正・村野恵美・熊田政信・等々力政彦・今川博・新美成二 2000「喉歌の発声における声帯振動の分析」『日本音響学会 音楽音響研究会資料』 19 (4): 41–48.

Todoriki, M. 2000 Tyva and Southern Siberia. Gallery Interform, Osaka.

等々力政彦 2000「ロシア連邦・トゥバ共和国とその民族音楽」『知られざる極東ロシアの自然—ヒグマ・シベリアトラの大地を旅する— 平成12年度特別展解説書』, 千葉県立中央博物館, 174–178.

等々力政彦 2000「ロシア連邦・トゥバ共和国とその民族音楽」『しゃりばり』 215: 17–21.

等々力政彦 2001『トゥバ語文法ノート』私家版, 大阪

Bicheldei , K.A. (Author), Kungaa, Chi. (Editor), Leighton, R. (Editor), Leighton, Alan (Editor), Todoriki M. (Editor), Mergen M. (Editor), Kreuger, J. (Editor), Slone, J.E. (Editor), Chakar. R.S. (Narrator), Kuular, A. (Narrator), Khovalyg, Kh. (Narrator), Deusen, K. (Narrator, Introduction), Tappan, D. (Translator), Polinsky, L. (Translator) 2003 Let's Learn Tuvan! [Workbook + CD set] (Spiral-bound). 3rd revised and corrected edition. Scientific Consulting Services International, Washington DC.

等々力政彦 2005「トゥバ民族の伝統音楽—喉歌「フーメイ」と楽器について—」Arctic Circle 52: 14–17. (査読有)

等々力政彦 2005「馬頭琴の歴史」『しゃがあ』42: 12–13.

等々力政彦 2007「トゥバの三弦の撥弦楽器ドシュプルールとその歴史—モンゴルの楽器と古代テュルクの楽器クブズとの比較を中心に—」小野田俊蔵・岡本康兒 共編『—音のシンポジウム—三味線のルーツを探る』4–11, 佛教大学アジア宗教文化情報研究所.

Todoriki, M. 2008 Old maps of Tuva 1—The detailed map of the nomadic grazing patterns of total area of the Tannu-Uriankhai—. The Research and Information Center for Asian Studies, The Institute of Oriental Culture, University of Tokyo, Tokyo. (査読有)

等々力政彦 2008「ハイマツのはなし」『森発見』9: 15.

等々力政彦 2008「トゥバ : 喉歌フーメイをめぐる歴史」『季刊民族学』124: 50–55.

Todoriki, M. 2009 Old maps of Tuva 2—Tannu-Uriankhai maps in eighteenth century China—. The Research and Information Center for Asian Studies, The Institute of Oriental Culture, University of Tokyo, Tokyo. (査読有)

等々力政彦 2009「共生のダイナミクス—現場からみた進化についての小論文—」『東洋文化』89: 63–120. (査読有)

等々力政彦 2009「生物は道を見つける」『明日の東洋学』21: 2–4.

等々力政彦 2010 「トゥバの古地図が意味するもの―遊牧民の世界認識―」『東洋文化』90: 261–293. (査読有)

等々力政彦 2010 「トゥバの弓奏楽器」小野田俊蔵・岡本康兒 共編『—音のシンポジウム—鳴ります啼きます泣いてもいます~北東アジアの擦弦楽器~』26–36, 佛教大学宗教文化ミュージアム.

等々力政彦 2010 「「結皮」:砂漠安定化の萌芽」『天地人』9: 13.

Todoriki, M. 2010 “Tuwa-ren: the emerging ethnic identity of the Altai-Tuvans in Xinjiang.” Journal of Eurasian Studies 2 (3): 91–103. (査読有) (http://www.federatio.org/joes/EurasianStudies_0310.pdf)

等々力政彦 2011「烏里雅蘇台志略にみえる、最古の可能性のあるトゥバ語語彙について」『東洋文化研究所紀要』159: 238–220 (123–141). (査読有)

等々力政彦 2012『トゥバ音楽小事典』浜松市楽器博物館. (査読有)

ハーモニーフィールズ・等々力政彦 2012 『フンフルトゥ2012年日本公演』私家版

等々力政彦 2014「内モンゴル敖漢旗喇嘛溝の遼墓壁画に認められる、台形胴の長頸リュートについて」『真宗総合研究所研究紀要』31: 49–63. (査読有)

等々力政彦 2014「声」国立民族学博物館 編『世界民族百科事典』, 478–479, 丸善出版. (査読有)

等々力政彦 2015「ロシアのアジア:シベリアの先住民とその音楽」『浜松楽器博物館・総合案内』69–76.(査読有)
[先頭の「Todoriki, M. 1997 Tuva. BooxBox, Ebetsu.」CD-ROM電子本『TUVA トゥバ』で等々力政彦のデビュー作であると同時に、私(田原洋朗)1997年に起こした、ブックスボックス(BOOXBOX)の第一作でもあった。]

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